「私のお父さんはプエルトリコ人で、お母さんがイタリア人です。」

 BIA 

美人でおてんば娘のビア(Bia)は、曲が単純にかなり良い。コカイン、ファッション、そして本人のサクセスに関する自慢話が多く語られる彼女のリリックは、まさに今時のヒップホップっぽい。プエルトリコの父親とイタリアの母親のもとに生まれ、僕の憧れであるボストンで育った彼女は3つの文化を背負いながらファレル・ウィリアムズ(Pharrell Wiliams)のレーベル〈i am OTHER〉に所属している。ただ、2016年5月に公開されたPV『Gucci Comin Home』以降はほぼ何もリリースしておらず、ファレルみたいな大物に支えられている割には露出度が低い。それにしても、彼女の音楽はクオリティーが高くて、オススメしたい曲が多い(『Bobby Brown』、『Whip It』、『Senorita Remix』、『Gucci Comin Home』、『#Cholaseason』、『Hot Nigga Freestyle』、『No Type 』などなど)。

ビアのラップはほとんど英語だが、プエルトリコ人でもあるためところどころスペイン語になる。そのおかげで、ラテン系のコミュニティにも注目されているようだ。そんな彼女に、僕は先日スカイプでインタビューをすることができた。普段からボーっとしている僕でも、久しぶりに緊張した。幸いなことに何とか勇気を出して、かなり噛みながらもインタビューを無事終了することができた。

 


太帝:ラッパーになりたいと思った最初の頃、あなたはどんな環境にいたのですか?

BIA:きっかけになった場所はイースト・ボストンで、3人の友達がいつも同じ家でレコーディングをしていました。その頃の私はまだラップしたことがなくて、ただRECボタンを押す役目でした。友達はそれぞれイースト・ボストン、ドーチェスター、ロックスベリー出身で、みんな本当の意味でのリリシストでした。そんな環境にいた私は、段々とラップしたくなって、彼らのリリシズムを吸収して身につけるようになりました。だけど、いまだにそのリリシズムを満足に表すことができていないので、これからみんなに見せることが楽しみです。私はもっとリリックにこだわりたいので、最近の流行は気にしません。まず自分ができる範囲で、一番良いモノを作ろうと思っているだけです。実際にラップを始めた頃は、私はいつも冗談で女友達の前でラップをしていました。「そこの水筒、お前、ちゃんと水飲んでないだろ、だから肌が荒れてんだ」とか、ふざけながらフリースタイルをしたり、友達をディスったりしていました。友達のあいだでラップをしていたのは私だけでした。友達は面白がって「ラップ結構ウマイね」と褒められたこともあります。その子たちは今の私の活動を見て「本格的にラップしてる」「ラップしてるというか、音楽作ってる!」と驚いています。

 


太帝:バイク事故の被害者になったことがあると聞きましたが、いつの話ですか?

BIA:地元のボストンからマイアミに引っ越した頃にファレルやファム・レイ(ビアのマネージャー)と出会うことができて、彼らのもとで1年くらいお世話になりました。そのうちファレルと一緒に音楽をリリースすることもできて、i am OTHERと公式にアーティスト契約を結ぶことになったのですが、その2週間くらい後にバイク事故で重傷を負ったんです。知り合いのバイクで2人乗りをしていたら、横から飲酒運転の車がぶつかって来ました。事故が起きてから約18時間は、足が切断されるのかどうかも分からず様子を見ていました。「キャリアが始まったばかりなのに、こんな早く終わっちゃうの?」と落ち込んでいました。最終的には無事に退院することができたので、仕事を本当に頑張ると決意しました。

 


太帝:作品をリリースするまでの流れを教えてください。

BIA:作品をリリースするには、必ず踏まなければならないステップがあります。たとえば、2週間後にiTunesで曲を出したいとします。そうすると、今日中にその曲を提出しないといけないです。それほど長い期間ではないですが、何人かから同意をもらう必要があります。私は運よくファレルとはクリエイティブな面ではぶつかることが少ないため、問題があるとしたらはビジネスに関することが多いです。レーベルが配給会社の言う通りに何かをする、もしくはしないというやり取りがよくあります。最終的にリリースしてくれるのは配給会社なので、彼らと協同する必要があります。みんなが同意しないと何もリリースできない仕組みなんです。でも、私が2016年以降から何もリリースしていない原因は同意に関する問題ではなく、作品作りに時間をかけているからです。本当に気に入っているものしかリリースしたくありません。私はしし座なので、常に意見が変わったりします。色んなことに細心の注意を払う完璧主義者なんです。「これは良い!」と思っても、1週間後には「アドリブを変えよう、これは全然良くない、あとdBをいくつか下げよう」と意見がガラッと変わります。いつも調整をしていて、ファレルの意見を聞くことも多いです。「これはどう思う? こっちは? じゃあ、こっちは?」と曲を聴かせると、「このバースはもうちょっとイケるんじゃない?」と彼は本音で意見をくれます。「これは良くない、最初からやり直し」ということは一度もありませんでした。

 


太帝:アルバムはミックステープと違って本格的に貨幣化できるものと扱われている気がしますが、制作の面ではどう異なりますか?

BIA:公式にアルバムをリリースするとしたら、レーベル、スポティファイ、iTunes、そしてプロデューサーの方々が絡んできたりして、いろんな人物が関わってくるので複雑になってきます。その理由は、みんながお金を求めているからです。これが原因で作品のリリースが延期されることがよくあります。歌詞の一部を修正したり、ビートの使用権利がなくなったり、いろんな出来事があって作品の雰囲気が変わることもあります。「あれが無くなっちゃったから、これを直さなきゃ」と作品が進化するので、スケジュール通りにファンたちに届かないことがよくあります。とはいっても、最近の音楽業界は全体的に盛り上がっていると思います。アルバムがリリースされる度に「これはタイムレスなアルバムなのか?」と何度も自問自答したり、友達と話し合ったり、もちろん期待されたりします。私の場合は、慌てずにタイムレスな作品をどんどん出していきたいです。今の私は2016年の自分と比べて少しは成長しているかなと思いますが、2016年にリリースした音楽は今でも胸張って誰にでもオススメができる作品です。振り返って「あの時はのってた、良いものを作れた」と、今でも言えます。

 


太帝:アメリカ、プエルトリコ、イタリア、それぞれの文化にどう影響されましたか?

BIA:私のお父さんはプエルトリコ人で、お母さんがイタリア人です。両親は離婚しているので、それぞれの家を行ったり来たりしていました。私が知っている限り、母方と父方の親戚同士が顔を合わせることは一度もありませんでしたし、それぞれの家の雰囲気も全く異なっていました。また、親戚同士で食生活に関した揶揄の応酬が多かったです。例えば、イタリア人の親戚に「こっちと向こうの料理、どっちの方がおいしい? 今正直に答えて」と言われたり、プエルトリコ人の親戚からは「あなた痩せすぎじゃないの? イタリアでは料理食べさせてもらえないの?」と言われていました。そんな感じで、いつも料理の話をされていました。私が十代の頃は、ドミニカ人やプエルトリコ人の友達が特に多かったです。年を重ねるほど自分のなかのラテンのアイデンティティが強くなりました。それはきっと、私の見た目がイタリア人よりも圧倒的にプエルトリコ人に見えるからです。それでもイタリア人としてのアイデンティティはあります。黒人の枠にも入るので、ブラックやアフロ・ラティーナとしてのアイデンティティもあります。このようにいろんなアイデンティティが混ざっていますが別に特別なことではなく、私みたいに何かしら血が混ざっているミレニアルは多いと思います。デッカいお鍋に色んな人種や文化がグツグツ混ざっているイメージです。ただ、自分たちがどのような人種背景でどのような文化で育ったのかを把握しておくべきだとは思います。そして、周りにどのような人がいるのかを学習して、目標としては世界がより結束していくべきだと思います。


太帝:好きなラテン音楽はありますか?また、お父さんは家の中でどんな曲をかけていましたか?

BIA:昔のレゲトンやラテン・ヒッツのクラシックが好きです。曲で言うと『Amor Prohibido』や『Aguanile』ですね。私が子供の頃にお父さんがよくサルサをかけていて、彼はエクトル・ラボー(Hector Lavoe)やマーク・アンソニー(Marc Anthony)が好きだったんです。

 


太帝:あなたのラップにはシェリル・クロウのレファレンスがありますが、こちらの歌詞について教えてくれますか?

BIA:それは「ママは白人でシェリル・クロウみたいな連中といつも連んでいる。ケンカが弱いと思われてるけど、私にケンカの仕方を教えてくれた」という歌詞です。私はプロジェクト(低所得者向けに政府が作った公営住宅)育ちなんですが、そこではやたらと脅迫されたり、なにかと危険な人がたくさんいました。お母さんはイタリア系白人であるためにいつも狙われていたんですが、めっぽうケンカが強く、絡んできた人をよくボコったりしていました。だから“白人だからってナメられても、ボコりますよ”という意味の歌詞なんです。「ニューヨーク、カリフォルニア、アトランタとかに比べてみたら、ボストンなんて目じゃない」なんて一般的には思われているかもしれませんが、ボストンにも地域によって危険な場所が沢山あるんです。たとえどんなところでも、同じような犯罪や暴力が起きていると思います。


太帝:あなたの一番好きなドラッグは何ですか?

BIA:私はウィードが一番好きです。SNSではペリコ・プリンセス(ペリコ=コカイン)というハンドルにしていますが、コカインが好きというわけではなくて、友達が冗談で作ったただのニックネームです。「今日から”コカイン・プリンセス”と呼んでほしい」と自ら思ったわけではありません。最近は「Lil Xan」(Xanax = 精神安定剤)とか、そういった名前でラップをしている人もいるようですが、私は最初からずっとビアと呼ばれたいと思っています。『Jug Dance』をリリースした頃は、本当に危ない環境のストリートにいたので、ペリコ・プリンセスなんて絶対呼ばれたくなかったです。ビヨンセの分身がサーシャ・フィアスと同じように、ペリコ・プリンセスというのが私がトラップハウス(ヤサ)にいるときの分身です。なので、よく誤解されますが、私はウィード以外のドラッグには反対です。周りにLSD、マジックマッシュルーム、モリーを飲んだりして遊ぶ友達はいますが、それぞれが判断するべきだと思います。ウィードだけは本当に好きです。そして私はインディカ派です。その次にハイブリッド、サティバです。サティバを吸うとしても、クオリティーが高くなければ吸いたくありません。私は元からお喋りですぐ興奮するタチなので、インディカを吸うと普通の人になれるので、頭の中が混雑したときにはとても効果があります。


太帝:ウィードは何歳から吸っていますか?

BIA:初めて吸ったのは年上の従姉妹と一緒でした。彼女とは10年ほど連絡をとっていないのですが、ある日公園に連れて行かれて、そこには子供たちがいっぱい集まっていました。私が11歳くらいのときでした。公園ではみんながウィードを吸っていて、ブラント(葉巻のタバコを取り除き、ウィードと取り換えたもの)が私に回ってきました。私は格好悪く思われたくなかったので、慣れているフリをしてブラントと受け取りました。THCの効果を高めるには、本当は肺の中に煙を数秒間ためてから吐き出すのですが、私は吸い方を知らず、凄い速さで煙を吹かして、それを見たみんなに笑われました。「この子はビル・クリントンみたいだ! ”煙は吸い込んでいません”ってか!」とみんながクリントン大統領の真似をして私をバカにしました(筆者註:ビル・クリントンの大統領選で、マリファナ吸引疑惑をかけられた時に「マリファナを1回か2回試してみた。でも、好きじゃなかった。吸い込まなかったんだ」と言っていた)。あれから1年くらいは、ウィードに近寄ることは全くなかったです。でも、1年後には毎日吸うようになりました。そして高校時代はいつも吸っていました。ウィードが好きな先生がいて、彼にも少しあげたことがあります。今でもその学校に彼はいるので、名前は言えませんが、ウィードが好きな先生は何人かいました。他の子よりも成長している生徒は先生たちに信用されて、ウィードや錠剤を先生たちに売っていました。そのなかには私の友達もいました。彼らは世間にバレないように気をつけていると思いますが、人間ですし、たまには楽しいことをしたいわけです。ウィードが好きな警察官もいるので、先生が吸ったとしても珍しくも何もありません。


太帝:この先、日本人と付き合うことはありえますか?

BIA:私の初めての彼氏はアジア系の血が入っていたので、日本人と付き合うことも全然ありえます。ただ、服装がオシャレでないといけません。パッと見て「カップルだな」と分かるようなペアリングであれば可能だと思います。私の髪の毛はオレンジ色なので、服装は全身黒でハードなイメージを作りたいです。人種差別はしません。バイブズが全てなので、気持ちが繋がっていれば問題ないです。

 


太帝:日本のファンたちにメッセージはありますか?

BIA:実際に日本のファンたちに会ってみたいです。特に女の子たちをサポートしたくて、世界中のドープな女の子たちといろんなクリエイティブなことをしたいです。個人的には日本のファッションやダンスが好きで、日本からインスピレーションを受けています。実は一番気に入っているダンサーは日本人です。また、自信がない子たちに夢を追いかける勇気を与えるようなメッセージを伝えたいです。私の場合は「音楽を作りたい」と決めていなければ、未だに同じ職場で働いていたはずです。「向いてない」と誰かに言われたとしても、やりたい事は何でもやってみるべきです。それをやり続けて、邪魔されても、そのまま前に進むべきだと思います。

   © 2021 出村 太